Taksu〜水と祈り

去年の12月に「欲動」を観ました。

「禁忌」も全編福岡ロケだった関係で、去年の夏にワールドプレミアで観る機会がありました。

「欲動」と似たテーマが根底にある作品ですが、それだけではなくて、“誰もが抱える隠された何か”を暗示する映画となっています。

興味のある方は、是非劇場で。

福岡の美しい海(特にナイトシーン)にも注目していただければ嬉しいです。


一切凶暴性や異常性を思わせるシーンはなくて、“一見普通の人”にしか見えない佐野史郎さん(ヒロインの父親役、ものすごいわけありな設定)が、登場人物の中で一番怖かった(^_^;)

じわじわ効いてきます。


話は「欲動」に戻ります。

内容に少し触れていますので、これから映画をご覧になる方はお含みおきいただければ。


冒頭の車内、後部座席の千紘とユリの手元が映ります。

そこで感じたのは、ふたりの距離感。気持ちが離れている、とまではいかないけれど、少しだけ別の方向に心が向いているのだということ。

“微妙な距離感”と静かに高まっていく緊張。

それはラストシーンまで、様々な形で描写されていきます。


夫が抱える重い病気、妻・ユリのある種の奔放さや高揚感。

身重である千紘の妹・九美の幸福感、やさしくいたわる夫。二組の夫婦は対称的でもあります。


自分自身を脱ぎ捨てたいユリ。

自分自身から逃れたい千紘。


祈りであり強い衝動でもあり、それが重なったとき、ふたりはようやく夫婦としてひとときの熱を共有できたのかも知れません。

雨、海、飲料水、水浴、霧、汗… 知らず知らずのうちに、観る者の内側でも湿度が高まっていく効果があるのではないでしょうか。


ティルタエンプル(RF素材)



ラストシーン、空は明暗を分かつ色彩でした。


病身とは思えない力強さで、海へ入って行く千紘。

繰り返し妻の名を呼びますが、呆然としたままあらぬ方角を見つめているユリ。


ユリの心情が全く理解出来ない…。


そんな風に違和感を覚えながらの帰り道。ふと思ったのです。

千紘とユリのいる場所は、それぞれが隔てられた空間なのではないかと。


「死にそうになったらお前にしがみつくと思う」という千紘の台詞と呼応するように、発作を起こした彼がユリにしがみついているシーンがあります。

ラストの海のシーンでは、時が流れ千紘はすでに亡くなっていて、魂だけが一途にユリに寄り添っているのではないか……千紘の呼ぶ声は生きているユリには届かず、ユリの瞳には千紘の姿が映っていないのだと思い至ったのでした。


亡き夫を思い、一人で海にきているように見えたのです。


ユリが女性として解き放たれたように、千紘も苦痛から解き放たれたのでしょうか。

女性だから相容れない、男性だから相容れない、母だから、母ではないから等々という対比も強く感じた作品でした。


生と死、性と詩にまつわる映画でもあるような気がします。


ここに書いたのは、あくまでも私がこの作品から感じたこと。

こうであってほしい。そんな願望もあります。なので、希妃さんの意図したところと実は違っているのかも知れません。実際に映画をご覧になり、また違った印象をお持ちになった方も多いことと思います。


同じ空を見ても、寂しくなったり嬉しくなったり。

音楽や映画でも、体調やその時の精神状態で受けとるものが変わってきたり。


「禁忌」も「欲動」も2回目をまだ観れていないのですけど、その時がきたらまた何か違うものを作品の中に見つけられるでしょうか。


雪の予報が出ていますが、今日もいい1日でありますように。


バリの海(RF素材)